京の時空を超えて
都の悪疫退散
京都の紫野にある今宮神社には、平安京以前から疫神を祀る社があありました。京の伝統的な織物、西陣織とも深いかかわりがあり、古の時代から人々の信仰を集めた数多くの物語が伝わっています。
京の都の悪疫を退散させた祈りの神社、今宮神社を紹介します。
疫病を鎮めた今宮神社の起源と歴史
古の京都では、疫病の原因を目に見えない存在や祟りや呪いであると信じられていました。疫神や政治的に失脚し亡くなった人の霊などが、災いと結びつけられて「御霊(ごりょう)」と恐れられ、疫病や厄災が起こると、原因である御霊を鎮めるために祭礼が行われました。
今宮神社は996年(正歴(しょうりゃく)5年)、平安時代の半ばに京都で流行した疫病を鎮めるために、疫神を祀る御霊会(ごりょうえ)を行なったことを起源とする神社です。
祭壇に神饌(しんせん)を捧げて御霊の御心を和ませ、京の中心部から京外へとお遷(うつ)りいただくのです。神や霊を楽しませるために、神輿(みこし)の行列や、囃子(はやし)と呼ばれる伝統的な音楽の演奏、舞踏が行われました。
1001年(長保(ちょうほう)3年)、再び疫病が流行したため、疫神を疫神社に遷し、新たに瑞垣(みずがき)をめぐらせて神殿を造営しました。瑞垣とは木や石、竹などで作られる建物を取り囲むためのものです。
大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の3つの神様を祀り、今宮神社と呼ばれるようになります。
創祀以来、一貫して疫病退散の神とされ、「やすらい祭」は疫神を鎮める鎮花祭(ちんかさい)として始まりました。この平安時代の御霊会の風習は、今でも今宮神社の「やすらい祭」や「今宮祭」として受け継がれています。
疫病の流行に対して、神鏡を形取った白い丸餅を献上し、その後は疫病神への供物として「あぶり餅」が用いられるようになり、そのことから参道での門前菓子へとつながっていきました。古くから祭の名物として知られ、これを食べれば疫病が祓えると伝えられています。
江戸時代の玉の輿物語
徳川綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)は、今宮神社との関りが深く、戦乱によって荒廃した今宮神社の再興に大きく貢献しました。桂昌院の元の名は「お玉」といいます。
お玉は、京都の「八百屋の娘」として生まれました。その後、父親が野菜を納めていた下級武士・本庄家の養女になり、公家出身の尼僧の侍女として奉公にでました。尼僧は将軍家に挨拶をするために、江戸城の将軍・徳川家光を訪ねました。お玉もお供をして江戸城に向かいます。ここで、お玉の運命が大きく動き始めます。将軍・家光が尼僧に一目ぼれし、尼僧はそのまま家光の側室「お万の方」として大奥に入ることになり、一緒にお玉も大奥で暮らすことになるのです。
時を経て、成長したお玉は、将軍・家光の目に留まり、家光の側室となり、家光の子を産みました。その子が後の5代将軍・綱吉です。こうして五代将軍・綱吉が誕生し、八百屋の娘だったお玉は将軍の生母となり、当時の女性としての最高位に上りつめました。
厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代に商人の娘から女性の最高位に上りつめるということはこの時代では考えられないことでした。「玉の輿」という言葉は、桂昌院の「お玉」という名前から生まれたとされ、彼女の運を加護した今宮神社も「玉の輿神社」として知られるようになりました。
そして現在では遠方から多くの女性参拝者を集める神社となりました。
西陣誕生秘話
実は、今宮神社は西陣と呼ばれるエリアに建っていたことがあります。西陣と聞くと、着物の存在を思い浮かべるのではないでしょうか。織物の町として栄えていた京都北西部の一帯が「西陣」と呼ばれている地域です。
「西陣」と呼ばれるようになったのは、室町時代中期の応仁の乱にまでさかのぼります。京都で勃発した応仁の乱は、東軍と西軍に分かれて戦いました。その際、西軍は総大将・山名宗全(やまなそうぜん)の屋敷に本陣を構えます。この「西」軍の本「陣」から、山名邸跡地の付近を「西陣」と呼ぶようになりました。その後、西陣地域で織物が栄え「西陣織」の名が全国に知れ渡りました。これが京都の西陣織の始まりです。
今宮神社には「本社」や「疫社」をはじめ、多くの社が鎮座しています。その中の一つ、織姫社(おりひめしゃ)は、七夕伝説の織姫に織り方を教えたという栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)が祀られており、織物の祖神とされています。縁結びや技芸上達のご利益があり、西陣業界の人々からも篤い信仰が寄せられています。
参道では、歴史と数々の伝統に彩られた今宮神社に寄り添い、変わらぬ味を守り続けている「あぶり餅」に出会えます。この地を訪れれば、日本の秘められた物語を感じることができるでしょう。