およそ800年前から受け継がれた鎌倉彫の技能伝承を受け継ぐ彼が、木を彫刻し、漆を塗る鎌倉彫では、表現しきれない青の世界をアクリルで表現した作品である。メインカラーは「Kenyu bleu」。海に潜って時間を費やすことの多かった幼少期に見た鎌倉の海と空、そして山の緑から生み出した彼の核となっている色である。
彫皿「富士越龍図」北斎は、浮世絵画家・葛飾北斎の雄大な富士峰を超えて、龍が昇天する図柄からインスピレーションを受けた作品である。
彫皿「神奈川沖波裏図」北斎は、青と金を使いたいと考えたときに浮かんだのが、葛飾北斎の「神奈川沖波裏図」だったという。北斎の「神奈川沖波裏図」は、大波、3隻の船、背景の富士山、と3つの要素で構成されているが、あえて富士山を描かず、波のみ描いた。なぜか?作品を見た人が、それぞれの海を思い描いてもらいたいという思いからだ。
本作品は、木を彫るということを突き詰めた作品である。部屋の飾ってみることもできるが、皿として実用的に使用することも可能である。大切なお客さんが来た時に、果物をのせておもてなしに使うこともできる。
伝統技法を受け継ぎ、今の世界の声を反映させながら、独自の世界へと昇華させている。
Art
伝統技法を受け継ぎ、今の世界の声を反映させながら、独自の世界へと昇華
Artist
鎌倉彫伝統継承者と国際的な仏師
三橋 鎌幽
鎌倉時代より続く仏師の血筋。800年続く伝統技の鎌倉彫を担う伝統継承者。2000年に父三橋鎌嶺に師事。心の鍛錬と仏師の初心を得るため建長寺で禅を学び、2010年には建長寺吉田老師より「鎌幽」の号を拝銘。
禅の祈り空間に必要な仏具制作や茶道具制作を中心とする、一方で自身の表現とするART作品も世界へ発信し、フランスのパ
リで個展を行うなど国内外で多岐にわたって活動中。
Art Style
時代に翻弄されずに伝承の核をさらに大きく厚くしていく
鎌倉彫
鎌倉彫は、およそ800年前から脈々と技能伝承をしてきた。時代時代でその時々の「今」と立ち向かい、工夫して変化していった結果の積み重ねが現在の鎌倉彫である。工夫や変化の時にも、先達の技術と精神は伝承の重要な核として、800年の時の中で大きく育ててきた。時流の早い現代、様々な工夫を行い、表現を体現し、「今」の声を取り入れつつも時代に翻弄されずに伝承の核をさらに大きく厚くしていくことが使命であると三橋鎌幽はいう。彼の鎌倉彫は、自己の表現、先達の技術と精神、そして今の世界の声を反映させ、「伝統」と「革新」を使命とし、唯一無二の作品を生み出している。
Roots
木材に彫刻を施したのちに
漆を重ねるという新たな技法を開発したのが源流
鎌倉彫とは、カツラやイチョウなどの木を用いて木地を成形し、文様を彫り、その上に漆を塗って仕上げたもので、神奈川県の鎌倉市及びその周辺地域で作られたもののことをいう。
12世紀末・鎌倉時代に、中国から伝わってきた、堆朱(ついしゅ)や堆黒(ついこく)などの漆器から着想をえた仏師たちが、木材に彫刻を施したのちに漆を重ねるという新たな技法を開発したのが源流とされる。鎌倉にある寺院には、鎌倉彫のもとになった貴重な仏具が伝わっている。13世紀の室町時代(1336〜1568年)に入ると、茶の湯が盛んになるとともに茶道具として大いに珍重された。これらの仏具や茶道具の制作に携わっていたのが仏師である。しかし、明治新政府の公布した神仏分離令(神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること)に伴い、廃仏毀釈の運動が起こり、各地で仏堂・仏像・経文などが破棄された。これらの影響を受け、仏師の仕事は激減していく。こうしたなか、鎌倉彫の再興に力を注いだのが後藤齋宮(ごとういつき)と三橋鎌山(みつはしけんざん)という2名の仏師であった。2人は、明治政府が開催した1877年の「第一回内国勧業博覧会」、1881年(明治14年)の第二回に鎌倉彫の作品を出品。また、後藤は1889年(明治22年)のパリ万博にも出品し、それぞれの博覧会で受賞した。こうして国内外で高い評価を得るようになった鎌倉彫は需要を拡大していく。さらに、明治の末期ごろ、後藤と三橋の両家を中心として新たな技法が研究され、鎌倉彫の基礎が確立された。